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【お客様の声】スペイン・ポルトガルドライブ紀行

(2012.10.13~2012.10.24)埼玉県 妹尾様

70歳を過ぎること既に4年、このまま80・90と歳を重ねることに多少の不安と不満を感じ、またぞろ海外に足を伸ばして歩き回ろうと今回実行したものである。

御同行していただいたのは、昔の会社の同僚で、今なお最後のお勤めをされている蛇川昌義氏(69歳)と長年のゴルフ仲間で、前回(2010年)もこの気侭な旅に御同行いただいた大変頼りがいのある井野善明氏(65歳)である。

今回は、長年の夢であった、ピレネー山脈の西、イベリア半島を回ってみようと思っていたところ、たまたまお二人から同行しようとの声もあり、実行に及んだものである。

イベリア半島と言っても、国は当然スペインとポルトガル、それも歴史的に異文化が複雑に交じり合っている、南部アンダルシアからポルトガルを主に回ろうと決めた。

スペインと言えばケルト、フェニキヤ、カルタゴ、ローマ、アラブイスラム、そしてカトリックとその支配を受け、何重にも文化や習慣が重なり合っている所謂「重層文化の国」とのイメージがあり、また、ポルトガルと共にかつての日本に多大な文明を持ち込んだ大変興味のある国との認識が旅への興味に結びついた。

また、普段からフランス、イタリアのワインに親しんでいるが、このあたりでちょっとイベリアのワインのうちスペインのシェリー酒とポルトガルのポートワインも試して見ようということで頭記のテーマとなった。

しかし、結果は無残にもその目的はあまり叶わず、ちょっと落胆気味な結末であった。

その最大の原因は、今回訪れる先が今までとはかなり違い、大都会が主であったため、ただ大きな地図のみに頼ったドライブでは、そのアラビヤの置き土産であるカスバのような複雑に入り組んだ網目状の街には簡単には入り込めなく、時間の無駄がかなりあった事である。

今回もその大部分が予約無しでの旅行であったため、目的地の都会に入ると先ずセンターに向かい、どこの街にも有るi(アイマーク=ツーリストインフォーメーション)で宿を紹介してもらうことにしていたが、今回は街の中心地まで至るのに多くの時間をとられたため、目的としていた行動がかなり制限されてしまったことである。ヨーロッパの古い街ではやはりGPSカーナビが必須であることを実感したのが今回の旅であった。

それでも頑張って、一応予定していたすべてのルートを回り、その距離はドライブだけで2,250kmに達した。

10月13日(土)

何時もの通り、今回も21時55分成田発のAF-277便を予約していたため、19時30に成田空港第1ターミナル4階エールフランス航空のチェックインカウンターで待ち合わせ。早速チェックイン後軽い食事などしながら搭乗を待つ。
搭乗機は定刻にテイクオフ。パリのシャルル・ド・ゴール(CDG)まで約12時間のフライト。

10月14日(日)

朝4時15分CDG到着後ターミナル2Fに移動して、バルセロナ行きAF1148便に乗り継ぎ、
予定通り9時20分にバルセロナ(Barcelona)(BCN)に到着。

空港から都心までタクシーで約20分。市内カタルーニャ広場(Placa Catalunya)近くのホテル、Hotel Continental Palaceteに到着。チェックイン出来るのは午後なので、スーツケースをホテルに預け、早速街の見学に出かける。

先ず初めに、ホテル近くのアントニ・ガウディ(Antoni Gaudi)の作品カサ・バトリオ(CasaBatllo 外観と内部の写真)に行き、外観から内部まで約1時間半の見学。入場料が65歳以上は12€。1905年ガウディによって増改築された建物で、その壁は内外とも見事に直線と平面を避け、その造形の奇抜さに何か異様なものを感じる。いたる所にタイルの破片で曲面を作り、当時流行した壁面構成の手法でもあったようであるが、特別そこには造形美は感じられなかった。ただ、中庭の壁面で、青いタイルのグラデーションが唯一気持ちをすっきりとさせてくれる。

次に歩いて10分ほどにある、やはりガウディ作のカサ・ミラ(Casa Mila)をその外観のみ見る。これは1906年頃のもので、バルセロナが近代化を遂げたもっとも重要な時期の誰もが憧れた住居であったらしい。矢張り外装には直線と平面は無く、バルコニーの手摺は鉄で加工されたワカメ様のグロテスクな代物が張りつけられて居る。内装は見る気も無く、すぐにタクシーでグエル公園(Parc Guell)に行って見た。日曜日でもあった為か、ここも結構な人の数で、入り口の中央階段にある破砕タイルが張られたトカゲの回りは人でいっぱい。近づくのも容易ではない。田園住宅街を作る予定が途中でただの都市公園に変更されたものらしく、いたるところに未来都市としての環境を重視した計画があったらしいが、今はただの公園として開放されている。列柱ホールでは道化師が演技をして人の輪が出来ている。またホールの外に伸びている柱廊の柱は自然樹木を模り多少不自然さを感じさせている。ホールからは遠くに地中海が望め、通路脇には布を広げ男達が小物のお土産品を売っているが、どうやらこれは違反らしく、警官が近寄ると慌てて店仕舞いをしていたのが滑稽に見えた。

今日のガウディ見学はここまでとして、いったんホテルに帰り改めてチェックインして、部屋に荷物を置き又外に出る。今度はカタルーニャ広場から南東側の旧市街地からゴシック地区を歩いて見た。先ず大聖堂(Catedral)を回って暫く歩くと目に入ったのが、1906~1908年にドメネク・イ・モンタネ−ル(Lluis Domenech I
Montaner)によって設計されたカタルーニャ音楽堂(Palau de la Musica Catalana 写真右)で、バルセロナモデル二スモの代表作である。外壁の華やかな花模様と角にある大きな彫刻が非常に印象的である。残念ながら日曜日のため内部に入ることは出来ず、外光を取り入れた開放的な客席は見ることは出来なかった。

ランブラス通り(Las Ramblas)のサン・ジュセップ市場(Mercat de Sant Josep)も今日は休みで中は見られず。この中で簡単にバルを楽しみたかったが残念。ここから歩いて少しのところに今夜の食事を予約してホテルにいったん帰り、シャワーを浴びて夜の街へ出直す。

今夜の夕食はスペイン第一夜でもあり、ちょっと豪華に、昔パブロ・ピカソが良く通ったことで有名なクアトロ・ガッツ(Cuatro Gats=4匹の猫 写真下)とした。たこ、ロブスター、肉などどれも大変な美味で、また、店お勧めのワイン(Perfume de Sonsierra)は最高であった。三人で175€

10月15日(月)

9時にサクラダ・ファミリア(聖家族教会 Temple de la Sagrada Familia)の受難のファサード前で、この工事でただ一人の日本人彫刻家、外尾悦郎氏と待ち合わせ、長い行列を尻目に教会内の外尾氏の事務所に入る。事務所には助手の大竹志歩さんも居て、先日NHKで紹介されたブロンズの門扉のレブリカが置いてあり、その前で記念撮影。外尾氏に地上80~100mの工事現場を案内していただき、鉄筋コンクリートの躯体や外装の石工事など見せてもらう。教会内部なども一通り案内していただいた後、氏から今までの35年間の苦労、実績、ガウディへの思いとその理解、現在採用されている鉄筋コンクリート(RC)工法への疑問などいろいろなお話をうかがった。130年前に着工され、その一部が出来たところでガウディーが亡くなり、更にスペインの内乱で彼のスケッチや図面の殆どが無くなったため、今は既存部分を徹底的に研究してガウディの思想やその原点を発見しつつ将来を見つめて仕事に当たっているとの事であった。ガウディはデザインの原点を自然界に求め、作品の法則性などは全て幾何学で説明出来ることを発見したとの事である。図面が無くてもガウディが向かう方向を理解していれば作品は出来ると外尾氏は喝破した。また、石ではなく、今は鉄筋コンクリートが使われているが、彼はその寿命に疑問を感じていて、様々な提言をしているようでもあった。因みに、外尾氏は現在このプロジェクトの主任彫刻家であり、京都嵯峨芸術大学の客員教授でもある。また、奥様比石妃佐子さんはスペイン在住のピアニストでもあり、日本でも活躍されている。兎に角、大変多忙の中約1時間半の時間をかけて案内してくださり感謝の気持ちでいっぱいである。

タクシーでホテルに帰ったところに、現在バルセロナで3軒の日本料理屋を経営している山下氏婦人が来られ、昨夜は日曜日のため食事はして頂けなかったからと、車でサンツ駅(Estacio Sants)まで送って下さった。(写真左から外尾氏、妹尾、大竹さん、虻川氏)

サンツ発12時のスペイン国鉄(Renfe)特急アヴェ(Ave)の特別席(Preferente Cl Seat)でマドリード(Madrid)に向かう。列車に乗り込んですぐ、山下婦人の車内にカメラを置き忘れたのに気付き婦人に電話をして、日本に送って頂くようにお願いした。

発車して間も無く、ビュッフェで軽い食事を取って席に戻り暫くすると、このクラスの車内サービスとして飛行機の機内食並みの食事が配られた。

マドリード・アトーチャ駅(Madrid Estacion de Atocha)に3時10分に到着、タクシーでホテル・エンペラドール(Hotel Emperador)に直行。今回はいろいろ複雑なことも予想されていたので、バルセロナ、マドリード、グラナダ、リスボンのホテルだけは日本で予約をしておいた。

ホテルにチェックイン後すぐに外出。まず、近くのデパートで安いカメラを買い、王宮に向かったが、時間切れで内部は見学できず、外観のみ。隣接のカテドラルを見て、マイヨール広場(Plaza Mayor)方向に歩いていると、途中サン・ミゲール市場(Mercado de San Miguel)が目に入って中に入る。中は15の店やバルが集結した市場で、フードコートのように各店で購入した料理を中央のテーブル席や、店のカウンターで飲食することが出来る。魚介や肉、イベリコハム、など各種のタパス、日本の寿司まで有った。因みにこの寿司はロシア人の青年が自分で握ったと言っていた(下のの写真)。われわれも何種類かのタパスやハムなどを買い、近くに居たロシア人の若い女性に声など掛けながらテーブルでワインを1本美味しく頂いた。

マイヨール広場では、痩せた日本の青年が一人声を掛けてきて、今パリから着いたばかりで、日本の人が居たから声を掛けたとの事、ちょっと不安そうな一人旅に見えた。

土産物など買いながら着いた太陽の門広場(Puerta del Sol 写真右)ではマリアッチの演奏に合わせて老人や数人のグループが楽しそうに踊っていた。

夕食は8時過ぎホテルの向かいにあるシーフードレストラン、シレナ・ベルテ(Sirena Verde)で手長えびのグリル、生牡蠣、マテガイ、地元ワインで済ます。

10月16日(火)

朝食後アトーチャ駅に向かってタクシーを飛ばし、途中植物園前で降りて散歩しながら駅構内の植物園を見学。更には、近くの王立音楽院(Real Conservatorio de Musica)前で記念撮影。この音楽院は井野氏が昔ギターを勉強すべく留学を考えたこともあったところであり、もしかするとそこで勉強していたかもしれないという懐かしい場所であった。

歩いて数分、プラド美術館(Museo Nacional del Prado)で行列の後について切符を買い入場。広い美術館内ではゴヤ(Francisco de Goya)の「着衣のマハ」(La Maja Vestida)と「裸のマハ」(La Maja Denuda)のみを見て早々に退出。

ホテルに帰ってチェックアウト後タクシーでレンタカーステーション(Hertz)に行き車を借り出す。

レンタカーは日本で予約したが、その時オートマチック車を頼んだら、外国での乗り捨てはマニュアルのみとの事だったので、久しぶりにマニュアルでも仕方ないと思っていたが、念のため現地でオートマチック車は無いかと聞いたところ、すぐ用意できるとの事。早速オートマチックに切り替え、車も一回り大きくなってフォードのs−Max(SUVタイプ車)と決まり、その手続きを終え街に繰り出し、国道A42でトレド(Toledo)に向かう。因みに、レンタル料は当初の予約より約800€高くなってしまった。

トレドの町は東・南・西の三方がタホ川(Rio Tajo)に面し、エル・グレコが後半生を過ごした町で、16世紀マドリッドに首都が移るまでは政治・経済の重要な拠点であったが、その後歩みを止めた町と言われている。現在でも複雑に入り組んだ街の様相は、まさしくユダヤ・イスラム・キリストが絡み合ったままの状態として感じられる。西側タホ川に面した駐車場に車を止め、徒歩でカテドラルを目指すが、複雑に入り組んだ街並みは中々目的地に近づけず、やっとの思いで到着。

15世紀末に完成した世界で四番目の大きさを誇るトレド大聖堂の本堂は当時のスペインの繁栄を随所に散りばめ、又多くの芸術家の手も加わって今の姿になっているとの事。カテドラルを出て散々迷った挙句車の位置まで戻って、街の東側Puente
de Azarquiel橋を渡って国道CM42に入りコンスエグラ(Consuegra)に向かう。ドン・キホーテの舞台となったカステーリア・ラ・マンチャ(Castilla la Mancha)の平原を走り暫くすると前方の小高い丘の上に何基かの風車が見える。まさしくドン・キホーテが巨人ブリアレオと見間違え、愛馬ロシナンテに跨り突進したラ・マンチャの風車である。全部で12基ある風車の2番目にⅰが有り、今夜の宿を紹介しもらう。本来今夜は更に南のアルマグロ(Almagro)まで行って泊まろうと思っていたが、意外にトレドで時間を取られ、今日はここで泊まることにした。

宿は、この町で唯一の三ツ星ホテル、ラ・ヴィダ・デ・アンテス(La Vida de Antes)。小規模だが、女性一人が全てを取り仕切ってくれ、中々親切な対応をしてくれる。

夕食は彼女の紹介でバル、タパセリア・ガウディー(Tapaceria Gaudy)でビールとワイン、それに何種類かのタパスで済ます。ホテルに帰って地物ワインで呑みなおし。

ラ・マンチャの風車

ラ・マンチャの風車

トレド大聖堂

トレド大聖堂

10月17日(水)

丘の上の風車群まで行くと多くの団体客が来ていて、中には日本の中年のツアーのメンバーがお互いに写真など取り合っていた。コンセグラを出て国道A4・A44を一路グラナダ(Granada)へ。このグラナダもかつてのイスラムの残した迷路の町であるが、事前にかなり詳細に経路を調べておいたおかげで、スムースにホテル到着。

ホテルはアルハンブラ宮殿(Palacio de la Alhambra)のすぐ近くのアルハンブラ・パラセ(Alhambra Palace)で結構格式のある四つ星ホテル。チェックイン後、坂を下りてグラナダの繁華街アラブ街へ足を踏み入れるが急に腹の調子がおかしくなり、一人だけ急遽ホテルに帰った途端に激しい嘔吐。夕食は勿論のこと何も食べられず頭を冷やしながら一夜を過ごす。結局グラナダの街は一切見ることが出来ず、残念な思いをした。

10月18日(木)

朝食を抜き、ふらふらの身体でアルハンブラ宮殿まで歩く。切符は日本で前もって買ってあり、当日は切符売り場で受け取るだけ。早速入場し、着いたところがヘネラリフェ(Generalife)。間違いと気がつき、本来のナスル朝宮殿(Palacios Nazaries)に行くため途中何回か聞きながらやっと到着。

宮殿に入り、メスアールの間(Sala del Mexuar)を通ってメスアールの中庭(Patio del Mexuar)からアラヤネスの中庭(Patio de los Arrayanes)に到着。ここはこの宮殿の目玉ポイントで、34.7m×7.15mの中庭は、その鏡の様な池の面に周りの壁のアーチが写っていて、まるで宮殿が水に浮かんでいるような景観を呈している。更に、ライオンの中庭では、そのセンターに、12頭のユーモラスな形をしたライオンが尻を中心に集めて放射状に配置され、水を吐き出している。また、周辺には大使の間(Salon Comares)、二姉妹の間(Sala de dos Hermanas)が配され、どの部屋も精緻なイスラムの幾何学模様が掘り込まれた壁と立体的な鍾乳石装飾が施された天井で目を見張るほどの美しさである。

一般に、王宮や城などをヨーロッパで見学すると、殆ど、壁がタペストリーや、絵画で埋め尽くされ、又家具など調度品が置かれていて、往時の華やかな使われ方が感じられるものだが、この宮殿はイスラムの教えで偶像など一切を排除しているためか、そのようなものは何も無く、非常に無機質な美しさのみが残っていた。

結構迷いながらやっと宮殿を出てホテルに戻り、チェックアウト後グラナダの街を抜けてマラガ(Malaga)に向かう。このマラガは比較的小さな町なので簡単に中心地にいけると思ったが、結構苦労してしまった。

大聖堂脇のレストランで昼食としたが、蛇川氏と二人は胃の調子が思わしくなくあまり食べられない。

元気の出ないまま、大聖堂を見学。ゴシック、ルネッサンス、バロックなど様々の様式が混在し、不思議な感じを受ける外装は、18世紀に未完成のまま工事が終了したとの事である。また、この礼拝堂にはスペイン内戦で虐殺された犠牲者らの遺骸が納められているとの事である。

このマラガはピカソの生まれ故郷でもあり、彼の生家や美術館などもあるが、今回はパスして次に向かうことにした。 高速道路AP7・E15から田舎道に入りミハス(Mijas)に着いたのが4時頃。小さな町なのでセンターまではすぐ到着。当初はもっと先まで行こうと思っていたが、疲労も溜まっていたため、今日はこの町に泊まることにして、早速iでホテルを斡旋してもらいチェックイン。この街の唯一の四つ星ホテル、ホテル・ミハス(Hotel Mijas)は豪華でもないが清潔感のあるホテル。傾斜地にあるため、フロントは1階、駐車場は地下5階で両方とも道路から直に入れる。料金は朝食付きで一室40.5€、駐車料は8€。

ミハスはアンダルシア地方の典型的な「白い町」で1時間もあれば全部回れるくらいの大きさである。センターの広場には何頭ものロバタクシーが客を待っていて、結構ロバの匂いがすごい。たまに客がつくと、引いている荷台に乗せるか、背中に直に乗せて決まったルートを回っている。結構ユーモラスだ。

夕食は見晴らしの良い展望レストランで簡単なものをたのむが、体調優れずあまり口に出来ず。

10月19日(金)

朝食後町に出て、ちょっとお土産やなどを覗く。サン・セバスチャン(San Sebastian)通りはまだ半分くらいしか開店していないので、入り口にあるお土産やで地元手作業の何種類かの小物をお土産として買う。その後白い町並みをちょっと散策してホテルに帰りチェックアウト。

今日は当初予定していたロンダ(Ronda)を省き、ヘレス・デ・ラ・フロンテーラ(Jerez de la Frontera)に向かう。

高速AP7・E15で約1時間、途中のカサレス(Casares)に寄り、山肌に張り付いている白い街並みを眺めた後、ちょっと街に入っただけで、再び高速道路に戻りひたすら西南に向かって走る。

暫く走ると、左手前方にジブラルタルのターリクの山(Djebel Tarik)の尖った形がうっすらと見える。その先はアフリカ大陸でモロッコだ。

アルへシラス(Algeciras)手前から高速A381に入り、午後1時半過ぎにヘレス・デ・ラ・フロンテーラに着いて早速iを探すが中々見当たらず。歩いていた警察官に聞くと、最近別な場所に移転したとの事。やっと探し出して、今日の目的であるシェリー酒のワイナリー、チィオ・ペペ(Tio Pepe)の見学を申し込むが、今日はこの後5時半からしか受け付けられないとの事。この時期ワイナリーの見学者が非常に多いためだと言う。折角の目的が果たせず悔しい思いでいっぱい。諦めて、今日の宿泊地セヴィーリア(Sevilla)を目指して高速道路AP4で約100km北へ向かう。

セヴィーリアは典型的なカスバ都市で、道が狭く迷路になっていて非常に走りにくい。取敢えずセンターを目指すが思うように走れず、苦戦していると、自転車に乗った老人が何処のホテルを探しているのかとしつこい。仕方なくセンター近くの適当なホテルの名前(ドニア・マリア)を言うと、そこまで案内してやるから自分についてこいと言って自転車で細い道を先に走る。両脇のミラーがかするほどの狭い道を、井野氏の巧みな運転で何とか切り抜け、やっとホテルについて今夜の宿泊の交渉をするが今夜は満室との事。因みにこの老人はこの地域の公的な案内人であり報酬は要らないと言う。仕方なくホテルの前に車を置き去りにして市役所前まで歩き、そこのiへ行ってホテルの斡旋を頼むが、ホテルのリストと地図をわたされ自分で探せとのこと。やっと近くの三ツ星ホテル、フーサ(Husa)と交渉して三室確保。一室91€で駐車代22€。チェックイン後、今夜は折角のセヴィーリアでありフラメンコの発祥の地でもあるので、早速フラメンコのショウが見られるタブラオ、ロス・ガリョス(Los Gallos)に10時半からの予約を入れる。

ホテルでシャワーを浴びた後8時過ぎから街に出て、カテドラルの周りを散策するが、今日は結婚式か何かの行事があったらしく多くの人で賑わっていて、広場には馬車が沢山繋がれている為か馬の匂いが鼻を突く。ライトアップされたヒラルダ(Giralda)の塔は12世紀にモスクのミナレット(尖塔)として建てられたものらしいが、16世紀にはカテドラルの鐘楼を付け加えられ今の形になっていて、イスラム芸術の見事な外観が見られる。タブラオへの途中ギターの演奏があるレストランに入って夕食をとるが、矢張り今夜も食欲はあまり無し。簡単なスープくらいの食事にして、脇で弾いているギターなど聞きながら時間をつぶす。10時になったので、迷路を迷いながらロス・ガリョスの前に行くとまだ前幕が終わってなく、フラメンコ独特の、かなり激しいギターのリズムと床を踏み鳴らす強烈な音が外にまで聞こえてくる。10時過ぎに入場し席に着くと早速飲み物の注文をとりにきたが、今日もワインは飲めずサングリーア(果物や炭酸を加えた薄いワイン)を注文し開演を待つ。

このタブラオはサンタクルス街にある老舗で団体は受け付けない。昔から多くの優秀なアーチストを世に送り出したことで有名であり、入場料は飲み物付で30€。兎に角激しい歌と踊り。見事なギターの演奏にあわせ、張り裂けそうな声量で歌う男性、長い華やかな衣装を千切れんばかりに振りかざしての踊りと床を踏み鳴らすタップ。圧倒される2時間であった。

帰りはタクシーを利用して、一方通行の多い街をかなり遠回りしながらホテルに到着。後は爆睡。

10月20日(土)

今日はポルトガルに入る日だ。朝直ぐ近くのカテドラルを見ようとしたが、世界で三番目の大きさと言われている内部はパスして、接続するヒラルダの塔の外観をゆっくり見て、改めてその見事なイスラム装飾に感激。たまたま9時の鐘が賑やかになっていた。

ホテルをチェックアウト後、迷路のセヴィーリアを抜け出し、高速A66・E803を約250km走り、メリダ(Merida)からA5(ポルトガル国内ではA6)を通って、バダホス(Badajoz)を過ぎたあたりでポルトガルに入る。更にIP2・E802を走ってカステロ・ブランコ(Castelo Branco)市に入る。本来この地で泊まろうと思っていたが、入ってあまりにも殺風景な街でもあり、更に50kmも走れば、ポルトガルらしい田舎村モンサント(Monsanto)があるので、今日はそこまで走って泊まることにした。取敢えずカステロ・ブランコのiで地図などを貰い、モンサントまで走る。

村のi(インフォメーション)に飛び込み、一人でぽつんとしている案内の青年にホテルの斡旋を頼むと、直ぐ近くの宿に電話を入れてくれ、ダブル一室とツウィン一室がOKとの事。早速そこに決めると、青年は、宿のおばさんが今迎えに来るけど、彼女は英語がまったく通じないから、自分も宿に行っていろいろ説明すると言う。 宿に青年も来て、鍵の使い方、タオルの有り場所などを親切に説明してくれる。 前金で一人30€を払うと、明日の朝鍵はドアの鍵穴に差したままでよいとの事。

この村は「最もポルトガルらしい村」と言われ、岩山の中腹に石造りの家がしがみ付くように立ち並び、ある家は大岩を家の壁に利用している。全体的には岩と岩の間に家を建てたと言ったほうが正しいかも知れない。部屋に入ると壁の一部にそこにあった大きな岩がそのままむき出しになっていて異様な感じがする。

早速村の中を散策するが兎に角急峻な坂道の連続、城跡のある岩山の頂上まではとても登れず途中で引き返し、見晴らしの良いテラス状の広場に出て見ると、2~3人の老婆が日に当たりながら編み物をしている。その中の一人が自分で作った小物を売っているらしいので、一つ買ってあげようと声をかけるが、まったく言葉が通じず、値段もわからない。

夕食はiの青年が紹介してくれた村一番のレストランに入るが、ポルトガルらしい料理は蛸料理。一人前が大きな皿に太い蛸の足が三本載っていて、ジャガイモやブロッコリー、人参などが添えられている。蛸は蒸してあり、柔らかく、結構味は良いが、とにかく量が多すぎる。体調があまり優れず、ちょっと手をつけただけで退散。

10月21日(日)

モンサントの朝は何も無い。人も歩いていない。村での朝食は諦め、村を出る。村から高速道路までの田舎道はのんびりしていて、道脇に名産のコルクの木が皮を剥がれ防腐剤か何か真っ赤な塗料を塗られて立っている。高速道路A23に戻って北上、更にA25からA24へと走り継いでペソ・ダ・レグア(Peso da Regua)に到着。

ここはポルトの東、ドウロ川(Rio Douro)の上流のドウロ渓谷である。素晴らしい景観のドウロ渓谷はその傾斜畑で栽培された葡萄で生産されるポートワインの産地。ここで樽詰めされたワインが船で河口のポルトに運ばれ熟成されてポートワインとして出荷される。

この素晴らしい渓谷美を眺めているだけでなく、ここのキンタ(Quinta=ワインの醸造所で荘園の意味)の一つでも見たいので、昼食を食べたレストランの女性に適当なキンタを紹介して欲しいと言ったところ、ドウロ川対岸のValletaというキンタならいつでも見られるとの話。いい情報を得たと喜び勇んで行って見ると、そこは別なキンタで、そのキンタなら別な場所だと言ってその場所を教えてくれた。早速そこへ行って見るとそれらしい建物は無く、近所のおじさんに聞くと、そのキンタは川の上流2kmにあり、今近くの女性に道案内をしてくれるように頼んであげるとの事。まもなく女性がベンツで先導してくれやっと件のキンタに着く。見学を申し込むと、予約が無いと案内できないとの冷たい反応。ここまでの大変な努力が水の泡。残念なドウロ渓谷であった。それにしてもこの辺の人はよくもこのようにいい加減なことを言うものだ。

レグアを出て間道N101から高速A4・E82でポルト(Porto)に向かう。

ポルト市内に入ったとたんに道に迷ってしまい、近くのスーパーに飛び込み案内の女性に道を聞いていると、それを聞いていた買い物客の女性が、これから自分はセンターまで行くので車で先導してあげるとの事。彼女の先導で無事ポルトの中心地に到着。親切な彼女に感謝。今日は2度も女性に道を先導してもらった。

中心地のiで早速今日の宿、グランデ(Grande Hotel do Porto) を紹介してもらいチェックイン。ポルトの賑やかなショッピング街サンタカタリーナ通り(Rua de Santa Cataerina)に面したこのホテルはクラシックな落ち着いたホテルでシングルユース朝食付きで一室64€。

街をちょっと散策しながらホテルで紹介してもらったレストラン、エスコンディディンホ(Escondidinho)で夕食。今日は日曜日で主なレストランは休みであるが、たまたま営業しているこのレストランは結構豪華で、食前酒をポートワインから始め、ポルトガルのワインと魚介が中心の前菜。メインはステーキ(シャトーブリアン)を一人前注文して三人でシェア。結構な量と味で大満足。三人で176€

10月22日(月)

久しぶりの雨で結構激しく降っている。折角のポルトなので今日こそはポートワインのワイナリーを見ようとタクシーでサンデマン(Sandeman)を訪ねる。

ワイナリー

ワイナリー

サンデマン

サンデマン

入館は10時であり、15分くらい待って入館し、見学料一人4.5€を払うが、個人の案内は10時45分からと言われ暫く待つことになる。やっと案内されて大きな樽が並んでいるワイナリー(写真左)に入り、黒マントとソンブレロのトレードマークの格好をした女性が英語で説明してくれる。結構な美人だ。順路を回って最後に白と赤ワインの試飲。こちらは運転があるので匂いを嗅ぐだけ。ちょっと残念な思いのままホテルに帰ってチェックアウト。

今日は長距離ドライブ最後の日だ。A1・E80で一気に南下。ポルトガルの首都リスボン(Lisbon=Lisboa)まで350km。今回はあまり苦労することも無くセンターに到着。ロッシオ(Rossio)広場に面しているはずの予約してあるホテル、メトロポール(Hotel
Metropole)が中々見つからない。周りで聞きまわってやっと見つけたのが小さな入り口のホテル。確かに上部のテントにホテル名が書いてあるが、直ぐには目に付かない。まったくホテルらしくない入り口というか玄関。ドア一枚の入り口を入るとすぐ階段で、中2階の部分からエレベータがあり、2階部分にフロントがある。小さなカウンターの受付でチェックイン。

部屋はそれなりの広さはあり、果物などが用意されているが、ちょっと腐っていたりで、しっかりした客室管理がなされていないことが分かる。このような設備内容、サービスなどからいって185€とは高すぎる。場所のせいか?

少し落ち着いた後外出。タクシーでアルファマ(Alfama)地区に行きカテドラルを見学。更にタクシーでサン・ジョルジェ城(Castelo de sao Jorge)に行き山上の公園からリスボンの町を展望。帰りは徒歩でこのアルファマ地区を下り始めたが旧市街地の迷路にはまり込み、夕闇迫ったこの界隈はあまり雰囲気が良くないので、通りかかったタクシーで早々と脱出。予約してあったリスボンで最高のファドレストラン、ア・セヴェーラ(A Severa)に直行。

昔フランソワーズ・アルヌール主演の映画「過去を持つ愛情」の中でアマリア・ロドリゲス(Amalia
Rodrigues)が歌うファドにすっかり魅せられ、それ以来何時かリスボンで本場のファドを聴きたいと思っていた。

15世紀の末ヴァスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama)がインド航路を発見し、莫大な富をポルトガルにもたらしたことがきっかけで、国の男達が挙って海に漕ぎ出し、それを待っている女達の歌う歌が今のファドの起源だと言う説があるくらい哀愁に満ちたポルトガル音楽である。失われたものに対する郷愁、悲しみや懐かしさなど入り混じった感情がポルトガル人の言う「サルダーデ」という言葉であるらしいが、まさにこのサルダーデがファドの根底に流れているとのことである。

クラシックギターとポルトガルギター(ギターラとも言う)の伴奏でファディスタ(ファドの歌い手)が歌うファドはそれを聴く日本人の心にも響いてくるらしい。演奏される直ぐそばの席を取って、間近でファドを聴きながらの食事は本当に良かった。食事はポートワインの食前酒、えび、蟹などの入ったサラダの前菜、メインはフィレミニヨンのステーキ一人前を三人でシェアし辛口のポートワインで終了。昨日とほぼ同じではあったが、満足であった。料金はテーブルチャージも含め三人で280€とちょっと高め。

10月23日(火)

朝食後直ぐにチェックアウトして車でマドリッド西郊外テージョ川(Rio Tejo)沿いのベレン(Belem)地区に行き、まず、ジェロニモス修道院を見る。

兎に角大きいこの修道院はポルトガル大航海時代の記念碑とも言える壮麗な建物で、マヌエルⅠ世の命によりエンリケ航海王子やヴァスコ・ダ・ガマの偉業を称えて16世紀に建てられたもの。建築は何人かの建築家が手がけたものであるが、全体がマヌエル様式と言うことになっている。内部には聖ジェロニモスの絵やマヌエルⅠ世一家の棺、ヴァスコ・ダ・ガマの石棺(写真右)などが安置されている。

次に川縁にある発見の塔(Padrao dos Descobrimentos)へ行って見るが、これは1960年にエンリケ航海王子の500回忌を祈念して造られたもので、ポルトガルの発展に寄与した人たちの像が大海に乗り出す勇壮な船に乗っている。その中に日本に来たフランシスコ・ザビエルも乗っている。

この塔の前床には大理石の張られた世界地図があり、ポルトガルが発見した世界の各地にその年号が刻まれている。因みに日本は1541年となっている。

更に川辺を歩いてベレンの塔(Torre de Belem)まで行ってみる。16世紀初頭に作られたこの塔はテージョ川を行き交う船の監視施設として造られたもので、後に通行税を取る税関や灯台としても使われたらしい。 川に張り出して大きな屋上テラスがあり、航海の無事を願った聖女マリアの像がある。内部には海に向かって沢山の砲台がおかれ、その他礼拝堂、国王の間、謁見の間などがある。

外に出て直ぐ近くのイタリアンレストランで昼食。

この後は車を返すのみと空港に直行。レンタカーのリターンの案内でレンタカー事務所に到着。何の問題も無く車を返却。そのまま空港へ行き、パリ・CDG行きの便にチェックイン。

18時30分発AF1925便にて定刻にリスボン空港をテイクオフ。時差1時間があるため2時間30分のフライトで、CDG着が22時00分。ターミナル2Fから2Eに渡り23時35分発AF278便で成田に向かう。 11時間30分のフライトで翌日日本時間18時00分に予定通り成田に到着。入国手続き後軽くお茶などを飲みながら無事の帰国を祝って解散。

一応予定通りのルートを回ってきたが、今回は非常に反省すべきことが多かったように思う。それにしても、井野・蛇川の両氏には御一緒いただき、また、いろいろお世話になり感謝の気持ちでいっぱいである。

妹尾さま 

まずは、弊社webサイトにも掲載 快諾していただきありがとうございます。
妹尾さまの旅行記からは、僕も学ぶことが多いので読むのを楽しみにしています。
拝見しながら気づいた点は、サクラダファミリアの外尾さまは、私のお客様の小学校で講演もされたようで、その様子をお客様から先月聞いたばかりで 縁を感じました。
食事では、マドリードのクアトロガッツ、エスコンディディンホ、ファドレストランおいしそうですね。僕も食べたい!!
レンタカーについては、オートマにされて良かったですね。でも800ユーロ追加になったんですね。
今回は、体調がすぐれない部分があり大変でしたね。。生牡蠣は、注意した方がいいかもしれませんね。。
そして、親切な人もいれば、いい加減な人もいて ラテンな国という事でしょうか??
歴史的背景やご自身の主観も書いてあり、読んでいて楽しくなりました!深謝いたします。
またご旅行の際は、御声かけ下さいませ。

ティースタイル
鈴木 年光